2016年3月20日日曜日

快適さは敵?わたしは美しい空間を創りたい

by True Portraits
信じてもらえなくてもいい

自然と時間と仲間、そしてビールが飲めるくらいのお金があればいいの

という記事を、前回書きました。


あれは、本音です。


わたしの満たされ度と、モノの多さは比例しないということを全身で感じられたのは、
わたしにとって本当に大きな収穫でした。


これから書くこととそれは、わたしの中では矛盾しないんだけど、
人によっては、おいどっちだよって思うかもしれない。



わたしにとって、
「美しさ」というのはとても重要で、必要なことです。


人によって「美しさ」の定義はそれぞれだから、
わたしにとっての定義を示しておく必要があるね。



わたしにとって、

「美しさ」とは、心地いいことです。


五感にうるさくないことです。

つまり、違和感なく調和していることです。


五感をくつろがせて、身体から力が抜けていく気持ちよさを感じることです。


何も考えられなくなって、ただ溜息とともに溶けていくことです。


官能。




だから、道にたくさんのごみが落ちていて、
空気が排気ガスで汚れていて、
たくさんのストリートチルドレンが煙草を吸いながら通行人にお金をせがみにくる状況は、


わたしにとって「美しさ」ではなかった。



下水の臭い漂う泥と油で汚れた川にかかる橋のそばに、
たくさんの掘っ立て小屋が建っていて、
そこに住む多くの人が、都市の貧困を味わいながら生きている世界には、

まっすぐな「美しさ」を感じられなかった。


ただただ「どうしてこんな世界が?」と思った。



そんな環境でも、しぶとく強くエネルギーを発している人々には、
やはり人間の根本的な「美しさ」、そして強烈な印象を受けたけれど、

でも、やっぱりそれを全肯定できない。


わたしの世界はいつまでもその対比を必要としているのか?と問いかける必要があると思いました。


快適さはわたしの敵か?


わたしはどこまで多くを望むのか?

わたしはどこまで手放せるのか?

わたしの望む世界は、何かを犠牲にしてしか得られないのか?

わたしが得ることによって何かを奪われる人がいるという信念は本当か?



わたしは、わたしが存在する世界に花を咲かせたい。
花を植えていきたい。

そう思ってしまうのです。


ごみがあるなら、それを取り除く。

川が臭うなら、下水や浄水場を整える。

休みたい人には、安らげる場所を提供する。


できることをできるだけやって関わりたい。

そしてそれを一段階ずつアップデートしていきたいのです。
より大きな「美しさ」を味わうために。




具体的にいうと、
わたしは清潔に整えられたベッドが必要です。


シーツやカーテンが肌に触れて心地よい自然素材であること、
変な柄などが入っていないことは、当然の条件です。


もしそうでなくても、短期間なら我慢はできます。

でも、愛せない。


変えようと思えば可能なのに、
気に入らないシーツに寝ころび、嫌いな柄のカーテンを見ていることは、
わたしの魂を殺すと思います。


高いものである必要はない。

ゴージャスさは必要ない。

だけど、わたしには最低限の「美しさ」のボーダーというものがあって、
それをクリアしていないモノを見ていることはわたしを疲れさせる。

そんな風に感じます。




わたしには、美しい環境が必要です。

環境を彩るための、快適さの象徴となるモノが必要です。



わたしの喜びや幸福感の大きさとモノの多さは比例しないけれど、
わたしの存在する世界は「美しさ」に溢れていてほしい。


それは、純粋な欲望なのだと思いました。


それを認めることができました。


わたしの周りが美しくなることは、
この世界に「美しさ」がひとつ増えることだと信じています。








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