2017年2月1日水曜日

「自分」をどこまでとするかによって人生の身軽さは変わる



救急車やパトカーとすれ違うたび、不安になる。




今日は、誰が?

まさか、うちの家族じゃないよね?



そう思っては怖くなる。




大切な存在があるから失うのが怖いのだと、
それは幸せなことだと人は言うけど、

わたしは単に幻にやられているだけだとも感じている。



怖いというのは幸せなことじゃない。



失いたくない、としがみつくのも幸せなことじゃない。




だって苦しいじゃないか。



執着がすべての苦しみのもと、といった釈迦はすごい。


人は執着して、
自分をがんじがらめにして苦しめている。









断捨離する。


好きな物を残し、
好きじゃないもの、必要じゃないものを捨てる。


好きな人と付き合い、
好きじゃない人と付き合う時間を、
その必要性をなくしていく。

縁を切っていく。



次は?


好きなモノを捨てていく。



必要だと思っているモノを捨てていく。




心の中で。



大好きなバッグも、
思い出の手紙も、
大好きな友達も、
その子のためなら死ねると思える我が子も、

捨てる。



捨てる、というよりも、
いつでも失って大丈夫なんだ、と思う。



思えるかどうかはわからない。




じゃあ次は?


もう、わたしに付属する、外側は捨てきったんじゃないの?



いやまだだ。





わたしの中の、思い出を捨てる。

わたしを作ってきてくれたたくさんの情報を捨てる。



愛された思い出も、
ひどい目にあった過去も、
頑張って積み重ねてきた実績も評価も、
人に迷惑をかけてはいけない云々といった常識も、
こうしたらこうなるといった憶測も、
知識も知恵も、


記憶も。




全部なくしてもいい、とする。





今人から得ている信頼も、
たくさんの時間を積み重ねて作ってきた思い出も、
愛しあっている関係も、

罪悪感も、


全部捨てる。



なくてもいい、とする。




これで全部か?




あとは身体も。




今スムーズに動いている身体、
健康である状態、
手足があること、
声がちゃんと出ること、
脳みそが脊髄が腎臓がちゃんとあることを、


いつ失ってもいい、とする。



ありがとう、
でもいつなくしてもいい、とする。







これは全部、
わたしというアイデンティティをなくすということ。


捨てるということ。


失うということ。



「わたし」がばらばらになるということ。



だから、死ぬということ。






「自分」をどこまでの範囲に定義するかで、
人の苦しさは変わってくる。


小さければ小さいほど、生きやすい。



死んでもいい、と思えたら生きやすくなる。





その人の周りにたくさんのものがあったとして、
それ自体はその人を苦しめない。


その人が、
どこまで「自分」に取り込もうとするかにかかってる。





その瞬間に生きるということは、
毎瞬死ぬということに他ならないんだな、と最近思った。





それができる人が、
身軽で幸せそうに見えるのは当然のことだ。





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