2017年2月9日木曜日

感情をとるとSNSはツール



最近、SNSを普段使いしている。

このblogもそうだし、
facebookやtwitter、simplogも始めた。
(simplogは自分用。自分がしたいと思った些細なことをやってあげたときに、写真と文字で記録してる。)

前のわたしなら考えられなかったことだ。

SNSとかなんか意味あるの?
自己顕示欲のかたまりなの?
自分の情報さらしてリスク負ってるだけじゃん?
そのせいで今このときを逃してるだけじゃないの?
淋しいからでしょ?

みたいな 笑


だからわたしはSNSなんかやらないよ、って思ってた。


大学生のときはmixiやってたけど、
それも自分の中ではバランスとりながら、
それらの自分の中での位置づけを探り探りって感じだった。

道具として、
自分なりの使い方を編み出してやるぜ、っていう
いい意味で自分本位な主体的な感じではなかったと思う。


今はどうだろう。


今も、それらとのかかわり方、
「わたしが」どう使うか、ということを模索している途中なのは同じ。

でも構えなくなったかも。


たぶんわたしにとってSNSという存在は、
「自分を表現する」こととすごく密着していた。


何をどこまで、誰に表現する?
なんでそれをしようとしてるの?

それが、わたしにとって重要な問いだったし今もそう。
本質であると思う。


わたしがわたしを卑下しているときは、

どうせ誰もわたしになんて興味ないのに、なぜ表現する必要がある?
くだらない情報。
どうせ聴いてもくれないし見てもくれないよ。
無駄だよ。

そう思ってた。

ただの自己満足に恥ずかしい自己顕示欲。
愚かさがばれるよ。
揚げ足をとられて攻撃されるよ。
惨めになるだけだよ。
損するだけ、傷つくだけだよ。
痛みを味わうだけ。
それくらいなら、小さな部屋で丸まって寝てたほうがいいんじゃないの?


SNSは、わたしのそういう葛藤をあぶりだしてくれる、
象徴としての役割を果たしていたということだ。

わたしの発信することに価値なんてない=わたしに価値なんてない
っていう。



でも、現実で、実生活の中でも自分を出そうとすると、
SNSだけが葛藤を感じる機会じゃなくなった。

わたしはあらゆる場所で自分を表現しようとし、
痛みを受け入れる覚悟をし、
泣いたり喜んだりするようになった。


すると、わたしにとってのSNSは、
葛藤を感じる象徴役割としての比重が全体の中で下がった。

結果、感情と切り離されたただのサービス機能になった。

わたしが、あえて余計な感情を付加しなくなったから。


そしたらなんの葛藤もなく、
ほんとの意味で自分にとって有効な使い方を考えられる。
ただのツールとして。

馬鹿とはさみは使いようっていうけど、それは馬鹿とはさみだけの話してるんじゃないよね 笑

馬鹿は嫌いだー!とか、
はさみは尖ってて怖いーーー!とかがある人は、
馬鹿もはさみも自分にとって都合よく使うことは難しいじゃない。
無理くり使おうとしても、エネルギーを無駄に消耗しちゃうし。

でもクリアに見ることができるなら、なんでも役に立つんだよね。
役に立てられるんだよね。


えっと話それたね。


あと前は単純に、新しいものへの警戒心が強かったのかな。
未知のものが怖いっていうの?
それに人も怖かったんだね。
過剰にリスクばっかり見てた。
それが少し弱まったのかなと思う。


結局今は、
自分だけを見れるようになりたいっていうのが一番にあって、
しかもそれは「今」の自分ね。

だから、「今」に集中するためにSNSも使いたいし、
それが後々ネガティブに見える展開を運んでくるとしても、
それは未来のわたしがどうにかしますよ、っていう。


ただ、わたしの役にたってくれてありがとう、と思う。
開発者の人にも、アプリにもそう思う。





あ、twitterは、
このblogの右サイドに埋め込んであります。

PCからご覧の方は既におわかりでしょうが、
スマホからご覧の方は気づかないかなと思うので、
今ここでご紹介です笑

blog更新してないときもtweetはしてることあるんで、よかったら観てみてねー。




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